静岡学園、全国高校サッカー日本一おめでとうございます。喜びにあふれる静岡市民と共に、静岡学園が谷津山近くの現在地に移転した2011年から環境学習支援を行っている私たち「谷津山再生協議会」も、その活躍に興奮と感動を頂きました。
ところで、決勝戦のテレビ中継で試合開始前、両校の校歌斉唱が放送され歌詞と共に静学校歌作曲者古関裕而先生の名前が画面に流れました。
実は、静学校歌作曲者が古関先生だということを知ったのは、2016年5月に創立50周年記念式典に招待され、当日のプログラムで校歌の作詞者村野先生と作曲者古関先生の直筆のサインを拝見した時、あの古関先生の作曲かと驚いたわけです。私の母校の第一応援歌の作曲者が古関先生で、その応援歌を学生時代神宮球場での六大学野球、特に早慶戦での応援でよく歌いそれ以来古関先生のファンの一人となりました。
3年前の夏、仙台まで出かけた折に東北新幹線を福島で降り、以前から行きたかった「古関裕而記念館」を訪ねました。福島市の生んだ偉大な作曲家の足跡を永遠に残し、いつまでも古関メロディーに親しむことや、市名誉市民第一号としての功績を称えるため昭和63年にオープンしたとの事。
建物は昭和22年NHK連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」で先生が作曲した「とんがり帽子」をイメージした建物で、直筆の楽譜や先生が作曲する際使っていた書斎をそのまま再現した「記念室」があり、驚いたことには先生が作曲する時にはいっさい楽器を使わず、五線紙のみで作曲されたとの事。先生の場合「自分の頭で思い浮かべたイメージが楽器の音色で崩れてしまう」と、楽器を使わなかったそうです。
記念館には数々の著名人やさまざまな人達が来館され、寄せ書きも残されていて、私も幼稚園児の頃ラジオから流れてきてよく口ずさんだ「とんがり帽子」の童謡や、学生時代に歌った「紺碧の空」を通じて出合った古関メロディーに再び触れ、青春の想い出で胸が熱くなった覚えがあります。
ここで、先生が作曲された応援歌「紺碧の空」についてご紹介します。
昭和5年古関先生は21歳で声楽家志望の奥様と結婚し、コロンビア専属作曲家として福島から上京。
当時、まだプロ野球もなく、他のスポーツもそれほど盛んでなかった為、大学野球の早慶戦が全国的な人気を集めていて早大の校歌「都の西北」慶大の応援歌「若き血」等、応援歌の応酬も全国ファンの血を沸かせていました。
然し昭和6年、早大の負けが続き「若き血」の力強いリズムにどうしても遅れをとり、新しい応援歌を作って「若き血」に対抗しようとの思いが全学内に盛り上がり、学内での歌詞募集に踏み切りました。
昭和6年4月に応募作品の中から、当時の人気作詞家で早大教授でもあった西條八十先生が選んだ作品が、当時高等師範部三年の住治男氏のもので、西條先生に「一字一句たりとも直すところ無し」と言わしめ、「これはいい詩だ。しかし作曲が難しいだろう。山田耕作とか中山晋平といった大家に依頼しなくては駄目だよ」と応援部員に手渡したとの事。
私が感心したのは当時、大学が主導で新しい応援歌を作るのではなく応援部の学生が主体となり、計画実行したことです。
作曲者を誰にするかまよい、大家の作曲家に頼むほどの予算もなく応援部部員だった福島出身の伊藤氏の推薦と働きかけで、まだ無名の古関氏に依頼、古関氏はそれを快く無償で引き受け、応援歌「紺碧の空」が完成したのは、先生が若干22歳の時でした。
苦心の末完成した応援歌は昭和6年初夏の神宮球場の澄み切った碧い空に大合唱で響き渡り、早大の勝利を呼び込みました。
そして「紺碧の空」は全国に広まり、古関裕而という作曲家を全国に知らしめたわけです。
また昭和11年にはプロ野球が結成され、「大阪タイガーズの歌」という球団歌を作曲。今では「六甲おろし」という名称で阪神ファンには欠かせない歌となっています。
昭和23年には新制高等学校が誕生し、全国高等学校野球選手権大会が甲子園球場で開催されることになり、歌詞を全国から募集し作曲は古関先生が担当し、生まれた曲が「栄冠は君に輝く」で、今でも開会式の恒例歌として使われ高校球児あこがれの曲となっています。
当時活躍していた作曲家の服部良一氏に「行進曲やスポーツ歌は古関さんにはかなわない」と言わしめるほどの名声を博したようです。
また私が一番感銘を受けたのは昭和39年大学二年生の時、東京オリンピックの開会式をテレビで見て、古関先生作曲の行進曲「東京オリンピックマーチ」に合わせて各国選手が入場する場面でした。
中学時代にプラスバンド部で行進曲の演奏をかじった私にとっても、すばらしい曲だと感じました。
「古関裕而物語」の本によりますと、先生が55歳の時で、開会式に選手が入場する一番最初に演奏され、しかもアジアで初めてのオリンピック東京大会であるということから、勇壮な中に日本的な味を出そうと苦心し、曲の初めの方ははつらつとしたものにし、終わりの部分で日本がオリンピックを開催するのだということを象徴するために、「君が代」の一節を取り入れたとの事。
先生のライフワークと言うべきもので、一世一代の作として精魂込めて作曲した事が書かれています。
また当時このマーチ発表後のオリンピック組織委員会には「この曲の作曲者は誰か」との問い合わせが世界各国からかなりあったと言われています。
今年2020年7月に二回目の東京オリンピックが開催されますが、今度の行進曲はどんな曲が演奏されるか楽しみです。
そのオリンピックマーチにちなんで、2020年4月からのNHK朝ドラが「エール」という題名で、古関先生ご夫婦をモデルにしたドラマが放送されるようで、今から楽しみです。
古関先生の音楽は色々なジャンルに渡っていますが、何と言っても若人の青春の躍動を伝えるスポーツ音楽にその魅力があり、これからも古関メロディーは不滅で永く後世に伝えられて行くと思います。
尚、掲載した写真(1)福島市の「古関裕而記念館」(2)昭和46年に「紺碧の空」生誕40周年記念に早大近くのお鮨やさんで昭和6年当時の応援部員、野球部員と祝杯をあげる古関先生の写真とサインがある額。(3)静学で頂いた静学校歌と先生のサイン
参考文献 齋藤秀隆:古関裕而物語(2000)
菊池清麿:評伝古関裕而(2012)
堤 哲 :早慶戦全記録(2019)
谷津山の鉄塔の設計者、「塔博士」「耐震構造の父」と呼ばれた内藤先生ゆかりの場所を訪ねました。
1.NHK放送博物館
「放送のふるさと」東京都港区の愛宕山にあるNHK放送博物館を訪ねました。標高25.7mの愛宕山は東京23区内で一番高い山(丘陵)で、江戸時代から信仰と山頂からの景観の素晴らしさで有名だったようです。
館内には90年前に始まった日本初のラジオ放送のことや、当時のラジオ受信機、昭和28年に開始されたテレビ放送の様子や機材などの展示があり、放送の歴史を伝えていました。
また「愛宕山の今昔」という写真展も開催されていて、古い時代の愛宕山の様子がよく分かりました。
2.ラジオ塔について
当日、学芸員さんがお休みだったため、谷津山の鉄塔、清水山公園に現存するラジオ塔の事など、後日電話でお聞きしたところ、昭和の初期に建てられた鉄塔やラジオ塔に関する資料が余り無く、鉄塔については前述の通りですが、ラジオ塔については調査を進めているとの事でした。
昭和初期にはラジオ受信機は高額であり、普及の足かせとなっていたため、主に公園や広場など多くの人が集まる場所に、ラジオの普及を目的としてラジオ塔が設置されたとの事です。
私はラジオ塔をNHKで設置したと思っていたのですが、そうではなく、例えば地元の自治会や有志によって設置されたようです。
清水山公園のラジオ塔が作られた昭和8年には、全国で41ヶ所建設され、「ラジオの日本」という雑誌の中で、清水山公園(NHK静岡放送局)のラジオ塔除幕式の様子が載っていて、静岡商工会議所から61名、沼津商工会議所から26名出席となっているとのお話しでした。
詳しい資料がありませんので推測ですが、除幕式の様子から見ますと静岡商工会議所の関係で建設されたのかもしれません。
3.愛宕神社
山上の放送博物館の隣には、徳川家康公によって慶長8年(1603)に創建された愛宕神社があります。
私達「谷津山再生協議会」が活動拠点としている「谷津山活用モデルエリア」近くの山頂にも愛宕神社があるのですが、同じく家康公によってここよりずっと前、天正2年(1571)に創建されています。
愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれ、その由来は三代将軍家光公が芝増上寺に参詣した帰り、山頂に咲いている源平の梅を所望し、馬術の名手である曲垣平九郎が急勾配の石段を馬で駆け上がり、社前の梅を手折り、馬で石段を下りて献上したことで、「日本一の馬術の名人なり」と称せられたことからきているそうです。
写真のように石段の上から下を見ますと、この急な石段を騎乗して下りたことがとても信じられない勾配です。
4.東京タワー
愛宕神社から徒歩15分で行ける東京タワーに登ってきました。
私が高校入学のため上京した二年前、昭和33年に東京タワーは「塔博士」内藤先生の設計により建設されました。
当時、昭和39年(1964)の東京オリンピック開催のため、首都高速道路、
新幹線、東名高速道路等の建設が進められていました。
古い建物が壊され、次々とビルや駅舎の建設が進められ、東京が変わろうとしていたというより日本が新しい時代に向かって変わろうとしていました。
そんな時代に建てられた東京タワーは東京のシンボル、観光名所として多くの
人を集めていました。
昭和38年に大学に入学した私が初めてのアルバイトで選んだ所が、東京タワー近くのスポーツ新聞社の印刷所で、夜勤の仕事を終え朝日に輝く東京タワーを眺めながら帰ったものでした。今思うと東京タワーへのあこがれが強かったのかもしれません。
東京タワーの足元に立ってみますと、内藤博士が耐震、耐風に対して太鼓判を押したタワーを支える脚部は本当にがっしりとして、最深部は地下23mの深さで、さらに各脚は地下で頑丈に結ばれている構造との事でしたが、今から57年も前に333mのタワーを建てたわけですから、当時の苦労は並大抵のものではなかったと思います。
展望台に登ると、昔と変わり高層ビルが林立し、NHK博物館のある愛宕山も高層ビルに埋没しているようでした。
5.早稲田大学大隈講堂
内藤先生が学ばれた東京帝大(現 東京大学)には安田講堂がありますが、先生が教えられた早大には大隈講堂があります。
大正11年(1922)、早稲田大学の創立者である大隈重信侯が逝去し記念講堂の建設が計画されました。
大正15年(1926)、「ゴジック様式であること」「演劇に使えること」を条件に、また大隈侯が提唱された「人生125歳説」にちなみ、125尺(約37.8m)の時計塔がシンボルとなる講堂の設計は当時の理工科の教授で行われ、構造設計はもちろん「塔博士」内藤先生でした。
今でも大隈講堂は「仰ぎ見る時計の塔に、青春の瞳は澄みて・・・」と学生歌で歌われるように大学のシンボルとして親しまれ、また重要文化財として認定されています。
6.早稲田大学内藤多仲博士記念館
大隈講堂から徒歩25分位の新宿区若松町にある旧内藤多仲邸を訪れました。大隈講堂を内藤先生が構造設計された大正15年頃、自邸を建てられたのですが、現在「早稲田大学内藤多仲博士記念館」として大学で管理しています。
見学会の開催時しか入れなく普段は非公開となっていましたが、外観だけでもと思い訪れました。
邸内は写真で見ただけですが、大正時代の雰囲気を残していて建物は鉄筋コンクリート造ですが、厚い壁が耐震の柱の役目を果たしている壁式コンクリート
構造となっているようです。
谷津山の鉄塔の設計者は後に東京タワーを設計した内藤多仲博士で、名古屋テレビ塔、大阪通天閣(二代目)札幌テレビ塔も設計し、塔博士と呼ばれた我が国を代表する耐震設計の権威なのです。
「内藤多仲と三塔物語」の本によりますと内藤先生は明治19年山梨県生まれで、東京帝国大学建築学科を卒業し、大学院修了後、早稲田大学建築学科の教授となりました。
前述しましたように、ラジオ電波塔の第一号は大正14年に東京の愛宕山に建てられた高さ45mの二基の鉄塔です。
形状はV字形のウエブ材を連続させたもので「竹の子がスクスク伸びてゆくような形」と表現したようですが、初めての鉄塔ということで大変な苦労があったようです。
以後、昭和8年まで26ヵ所に自立式の三角鉄塔二基を一組とした塔が30基以上建設されました。
「東京タワー50年」の本によりますと、鉄塔は二基で一対となりそのあいだにアンテナ」を張るので、その張力も見込んで設計しなければならず、気象観測もそれほど発達していない時代で、どの高さでどの位の風が吹くのか、その風圧、風力係数など正確なデーターがなかった中での設計で、実験では安全だということが確認できたが、それでも「もし倒れたら・・」という心配から風のある夜は不安で寝ていられなかったそうです。
昭和9年に超大型の室戸台風が上陸し、全国で死者、不明者3,066名を出しました。大阪地方では最大瞬間風速60mを記録し、建築物や送電塔などの倒壊被害が数多く報告されたなか、先生が昭和7年に建てた大阪千里山の高さ100mの鉄塔はこの台風をものともせず、内藤博士の鉄塔設計の正しさが証明されました。 谷津山の鉄塔はこの30基建設された内の一つで、昭和5年の設計となっています。
本のなかでは京都放送局に現存していると書かれていましたので、NHK放送博物館の学芸員さんに電話で確認したところ、当時の鉄塔で現存しているのは静岡(谷津山)と京都だけですが、京都の鉄塔は今年2月に放送局が新社屋に移転したため解体されるとの事。 そうしますと内藤博士が当時設計し建てられた鉄塔で現存するのは谷津山の鉄塔だけということになります。
昭和28(1953)年にテレビ放送が開始されてから数年後、テレビというメディアが人々の生活に大変革をもたらそうとしていた時代に、巨大電波塔建設の計画が始まり「塔博士」内藤先生設計の東京タワー(333m)が実現したのです。
これは私見ですが、東京タワーが建てられた昭和33年からさかのぼること28年前、昭和5年に谷津山の鉄塔は建てられたのですが、この昭和初期に建てられた30基のラジオ電波塔が、その後の巨大電波塔である東京タワー設計のルーツとなったのは間違いないのではと思います。
日本では高層建築と言われる建物がまだなく、もちろんパソコンも無い時代でしたので、内藤先生はしばしば胸のポケットから取り出したわずか14cmの計算尺を愛用していたとの事。
大正4,5年頃内藤先生の恩師がドイツ留学し、そのお土産に頂いたもので、これを肌身離さず持ち歩いたそうです。
もしかすると谷津山の鉄塔もその後の東京タワーも、同じこの計算尺から生み出されたかもしれません。 昭和34年にNHKがラジオ送信所を市内宮竹に移転したため、鉄塔はその後東海大学の所有となりました。 谷津山の様相は放置竹林に覆われて変わってしまいましたが、鉄塔は85年経った今でも変わらず、静かに佇んでいます。
今の若い人達にとってはテレビのない生活など考えられないと思いますが、歴史的背景を持つ谷津山の鉄塔、それからラジオの普及の為に昭和8年に清水山公園に建てられ現存しているラジオ塔共、歴史的、文化的遺産をぜひ後世に残してほしいと思います。
そんな思いで「放送のふるさと」である東京の愛宕山、今では当時建てられた鉄塔、放送局はありませんが、そこに造られたNHK放送博物館、東京タワーにも行って来ましたので(その3)でお伝えします。
参考文献 「内藤多仲と三塔物語」 LIXIL出版
「東京タワー50年」 鮫島敦 著 日経ビジネス文庫
戦後日本人の“熱き思い”を
「NHK放送博物館だより」 2012 No.58
桜の開花が始まった3月22日、NHKラジオでは90時間ラジオ、またNHKTVでは放送開始90年の特集番組が流れました。
大正14(1925)年3月22日、関東大震災から2年後でしたが、東京でラジオ放送が始まり、今年で放送開始90年となり記念の放送イベントが行われたわけです。
その仮放送から3ヶ月後に東京の愛宕山に建てられた二基の鉄塔から本放送が始まりました。それから遅れること6年、昭和6(1931)年3月に谷津山山頂に建てられた二基の鉄塔からNHK静岡放送局の第一声が流れました。
谷津山のことを話した時、「あの鉄塔が二本ある山ですね」と言われることがあり、また静岡を離れ東京方面から久し振りに帰省した時、車窓から鉄塔のある谷津山が見えると「静岡へ帰って来たんだ」という実感が湧いてくるという話しをよく聞きます。
私事ですが、今から55年前の昭和35年3月、中学校の卒業式を終え、東京の高校に進学するために単身、東海道線の列車に乗車しました。
中学二年生の時、志望大学を決めた私は東京での下宿生活を希望したのですが、
まだ情報が乏しい時代で、もちろん新幹線もまだなく、各駅停車で約4時間、下宿先まで約5時間の旅で東京が遠く感じられたのを覚えています。
両親には強がりを言って出てきましたが、内心は不安でいっぱいでした。発車のベルが鳴り、動き出した車窓から私の目に飛び込んできたのが谷津山の二本の鉄塔でした。
子供の頃テレビが無い時代で、家にあった真空管の大きなラジオで放送をよく聞きましたが、当時谷津山の近くに住んでいたわけではなく登ったこともありませんが、二基の鉄塔が私に「頑張ってこいよ」と励ましてくれたように思えました。
その後なかなか静岡へ帰れなかったのですが、たまに帰省すると谷津山の鉄塔が暖かく迎えてくれたような気がしました。
その後、縁あって谷津山の山裾に住んで今年で35年、毎日鉄塔を眺める生活が続いています。
(その2)では鉄塔を設計した内藤博士のことを含め、鉄塔の歴史的なことを書いてみたいと思います。
明けましておめでとうございます。
毎年元旦、谷津山の山頂で初日の出に手を合わすことから一年が始まります。
谷津山再生協議会が設立される前、山頂南側が一時期放置竹林で覆われ見晴らしが悪かったのですが、「やつやま友の会」の手で伐採が行われ、日本平、駿河湾、遠くに伊豆半島が望める眺望を取り戻すことが出来ました。
それ以来、毎年元旦に約200名位の人達が初日の出を拝みに山頂に登ってきます。
元旦の旦は地平線、水平線から昇る太陽を表わし「元日の日の出」の意味と言われています。
今年はお天気が心配された影響か、例年より人出が少なかったのですが、日本平の山頂近くから昇る初日の出を見ることが出き、日々健康で元気に過ごせる事に感謝し、今年が少しでも明るい年になります様に手を合わせました。
その後、鉄塔を少し下ったビューポイントで富士山を望み、ピクニック広場を通り、配水場を右に下って護国神社に初詣に行って来ました。
早朝でしたので参拝の方々もまだそれほど多くありませんでしたが、神前に手を合わせ御参り致しました。
手を合わすという姿は「神仏の前に己を正して、自らのあやまちをより少なくしようと心に期する」ためであると松下幸之助さんが述べておられますが、私のような凡人にとっては「苦しい時の神頼み」で、今年も願い事の多い一年になりそうです。
「光陰矢の如し」の通り本当に一年が早く感じられますが、谷津山再生協議会も今年5月には設立10年目を迎えます。
何とぞ本年も宜しくお願い申し上げます。(平成27年 元旦)
谷津山の顔といえば清水山公園、市の公園として県下で最初に造られ、創設は1909年といいますから今年で105年の歴史が刻まれています。
毎年7月9日には夏を知らせる「きよみずさんの花火」があり、市内では最も早い開催となります。
7月9日は四万八千功徳日に当たる日で、この日に参拝すれば一生分の功徳がもらえると言われていますが、これは一升ますにお米をいっぱい入れると48,000粒程入ることから一升と一生をかけて使われているようです。
清水寺の創建は今川義元の時代、九代氏輝(義元の兄)が24歳で亡くなり、その遺命によって今川家重臣、朝比奈丹波守元長によって建立されました。
その際、地形が京都の清水寺と似ていたことや京都から大僧正を招いたためこの寺名が付けられたと言われています。
江戸時代、家康が千手観音を寄進した際に、厄除け開運の大祈願を行い、駿府城築城の瓦を焼くため呼ばれた渥美半島出身の瓦職人達が手作りの花火を上げ奉納したのが始まりと言われています。
「きよみずさんの花火」もかつては清水寺の檀家が主になり寄付を集めていましたが、檀家も少なく役員が亡くなったり高齢化で存続があやぶまれました。
そこで十年位前に「きよみずさんの花火を守る会」が出来て、近隣の町内二十四ヵ町が協力し、町内会で寄付を集めています。
6月始めから各町内会役員の皆様が、表側に葵のご紋が入ったうちわを持って
寄付集めに回っています。
現在では安全上の問題で、公園内の仕掛け花火はありませんが400年以上に渡って受け継がれてきた「清水観音様の大縁日」と初夏の風物詩として皆様に親しまれてきました「きよみずさんの花火」に是非お出かけ下さい。
毎年、サクラはゆっくり一番いい時期にみたいと思いますが、晴天、満開、自分の都合なかなかあわないものです。3月31日は、前日の大雨が春霞を洗い流し、晴天で風もなくあたたかで、なんといってもソメイヨシノは満開、澄んだ空気で、最高の景色とサクラが見れました。
谷津山に咲くサクラを求めて、清水山公園から谷津山山頂、ピクニック広場、ライオン砦まで歩きました。周辺の景色もこの季節には珍しく、雪を被った南アルプス、富士山が純白の姿をくっきりと見せていました。
谷津山は静鉄の電車やバスを使って登り口まで行くことができ、いろいろなところから登ることができます。また降り口もたくさんあって、縦走するもよし、目的となる地点に向かって登り、またすぐ降りても良い、気軽に歩くことのできる山です。この日も小さな子供さんから大人まで、ゆっくりとサクラを見ながらお弁当を広げたり、写真をとったり、皆さん楽しんでいらっしゃいました。
サクラは遠くから見ても木の下から見上げても、上から見下ろしても、一輪一輪の花を観察しても美しく、ほのかに薫るサクラは春を感じさせます。谷津山は日を変え、季節を変え登るごとに新たな発見や、日常には少ないゆったりとした気分を味あわせてくれる山です。
今年(平成26年)、静岡では3月24日にソメイヨシノの開花が発表されました。春の暖かな陽気が続き、木によってばらつきはありますが、それぞれの場所で3分咲きから満開です。
谷津山再生協議会が活動を行っている谷津山活用モデルエリアのサクラは、3月29日に満開でした。谷津山にはカンヒザクラ、ヤマザクラ、オオシマザクラ、ソメイヨシノ、サトザクラなどが自生、植栽されています。当場所にはオオシマザクラ、ソメイヨシノがあり、そのどちらもが満開で、時折吹く風に桜吹雪が舞っていました。暖かな日で、ベンチに座り、満開のサクラをほぼ一人で独占し、眺めていました。サクラは、木全体や群生している姿が鑑賞されますが、一つ一つの花もかわいらしく、美しいものです。一輪の花を見ると、ソメイヨシノは大人かわいい、オオシマザクラは美人、ヤマザクラは子供かわいいでしょうか。毎年、春が来るとサクラの花を見て、日本人で良かったと感じています。
サクラを花で区別する方法として、花の色、大きさも異なりますが、萼片の縁の鋸歯、萼筒の毛の有無など違いがあります。ソメイヨシノは、萼片の縁に鋸歯があり、萼筒に毛があります。オオシマザクラは、萼片の縁に鋸歯があり、萼筒に毛がありません。ヤマザクラは、萼片の縁に鋸歯はなく、萼筒に毛がありません。ぜひ、サクラの一つ一つの花も観察してみて下さい。
谷津山上の三角点(標高107.9m)から、南アルプス南部の雄峰である赤石岳・聖岳・上河内岳の諸峰が、また、安倍川最上流の大谷崩れの源頭にあたる大谷嶺も望見できます。今冬2月の降雪時に、甲府では観測開始以来120年ぶりの114cmの積雪となったように、静岡~山梨~長野の山間部は記録的な大雪となりました。この3月11日の快晴の朝、写真のような白雪に輝く南アルプス南部の山々が谷津山上から望見できました。
「日本百名山」の著者であります作家の深田久弥は、そのなかで「平家物語」の一節を引用し、駿河の宇津ノ谷から手越にかけての地から望める南アルプスを、雪白き山として紹介しています。
・・・・・宇津の山辺の蔦の道、心細くも打ち越えて、手越を過ぎて行けば、北に遠ざかりて、雪白き山あり、問えば甲斐の白峰という。その時、三位中将、落つる涙をおさえつつ、
惜しからぬ命なれども今日までにつれなき甲斐の白峰を見つ・・・・・・「日本百名山」(新潮社)より
甲斐の白峰は静岡市内からは望見できませんが、「平家物語」の著者は、赤石岳・聖岳などの雄峰を駿河国から望み、上記の一節を著したのではないでしょうか(因みに甲斐の白峰三山は、晴天時由比の浜石岳から望見できます)。
植物観察やハイキングなどで谷津山に登られた時、特にくっきりと晴れ渡った冬から早春の日には、北に目を向けて白雪に輝く南アルプス・安倍奥の山々を望んで、日ごろの疲れを癒されるのは如何でしょうか。
静岡県庁別館21階に360度見渡せる展望ロビーがあります。ここから谷津山の全景を見ることができます。静岡新聞にも紹介されていましたが、昨日(11月27日)は、富士山にぽかりと浮かぶ「はなれ笠」と呼ばれる珍しい雲が見られました。静岡市は平地からも富士山を見ることができる場所がありますが、谷津山からも富士山を望むことができます。谷津山は展望ロビーからみると、市街地という海に浮かぶ緑の島のようです。高層の建物が邪魔して、全景を見渡せる場所は少ないですが、ここからは谷津山の全景を周辺の状況も含めて見ることができます。谷津山は、山の際まで住宅地がせまり、周辺には小・中・高・大学の教育機関があります。環境学習の場としても、市民の憩いの場としても利用するには最適な環境です。独立した丘陵であって、2kmほどの道のりを縦走することができます。そして、所々で南アルプスやその前衛の山々、富士山、駿河湾、そして私たちの生活している静岡のまちを見ることができます。谷津山は、常緑広葉樹林や竹林が多いですが、四季を通じて登ってみると変化をしっかりと感じることができます。春はソメイヨシノに始まり、テイカカズラの花の香りや草の香り、鳥の鳴き声、虫の鳴く声、秋にはドングリを拾うこともできます。この谷津山という環境の大切さを多くの人に知ってもらいたいと思います。そして遠くから眺める存在ではなく、もっと身近な環境として感じてほしいのです。皆様はきょう、風のにおいを感じたり、空を見上げたり、木々をみつめたりしたでしょうか。草の上、土の上を歩いたのはいつでしたでしょうか。
アサギマダラという茶色に半透明の水色斑点模様を持った美しいチョウをご存じでしょうか?
私は、このチョウを伊豆の山で見たときから、この美しさに惚れています。名前は、藍染めで薄く染められた色で見られる「浅葱(あさぎ)色」からきています。このチョウは、夏の間は比較的標高の高いところに生息し、秋になると山から下ってきて低地でも見られるようになります。その後、南西諸島、台湾へと渡っていく「旅するチョウ」なのです。
私は、10月の下旬頃、静岡市の丸子の庭先のフジバカマに渡り途中のアサギマダラを確認したときから、家を建てたら庭にフジバカマを植えて呼び込もうと考えていました。植えた次の年からアサギマダラが毎年庭にやってくるようになりました。今年は少ないように感じますが、谷津山の近くの庭先にも10月の下旬にやってきたという情報をもらいました。11月に入って見られなくなったそうですが、このコラムを書いている11月6日にも、家の庭には1羽のアサギマダラがやってきました。アサギマダラは、フジバカマやヒヨドリバナなどで吸蜜している姿をよく見ます。これは、雄が性フェロモン分泌のためにこの花々に含まれているピロリジジンアルカロイドの摂取が必要と考えられているそうです。チョウにはそれぞれ幼虫時の食草が決まっているものが多いですが、アサギマダラもガガイモ科のキジョラン、カモメヅル、イケマなどを食草としています。これらの植物には毒性の強いアルカロイドが含まれていて、敵から守るためにこれらを摂取し、鮮やかな体色も毒をもっていることを知らせる警戒色になっているそうです。
谷津山活用モデルエリアで、草刈り等の作業を行っていると、普段何気なく見ているものでも新たに気づかされることがあります。それは、直接草を触って作業しているからです。
7月に、植物の茎にびっちりとふわふわした綿状のロウ質物を身にまとった幼虫がついていました。その幼虫は、茎を触るとその反対側へすばやく移動してしまいます。これはアオバハゴロモの幼虫です。成虫の体長は5.5~7mmと小さく、その名の通り、薄い透明感のあるグリーン色の羽をしていて、羽衣を身にまとっているような美しい姿をしています。幼虫、成虫ともに茎や枝から養分を吸う昆虫であることから、害虫とされています。でも、谷津山に人の手が入り、維持管理され生物の多様性が保たれていれば、食う食われるの生物間の相互関係で、大量発生することもなく、個体数は調整されます。昆虫は、幼虫期と成虫期では容姿が異なりますが、成虫で美しいものほど幼虫はグロテスクな容姿をしているように感じます。昆虫類は、植物よりもさらに種類が多く、まだ発見されていない種、成虫と幼虫が結びついていない種、生態がよくわかっていない種が、まだまだたくさんあるのです。
イチョウは、神社や寺、街路樹としても植えられ、誰もが知っている身近な木です。谷津山周辺でも清水寺や蓮永寺、龍雲寺で見ることができます。別名「公孫樹(こうそんじゅ)」、種をまくと孫の代に実がなることに由来し、長寿の木です。病気にもかかりにくく、痩せ地でも育ちます。イチョウは生きている化石といわれ、その仲間は中生代のジュラ紀に最も栄えた植物です。イチョウの仲間は、かつて日本にも生育し、化石として残されています。今日本に生育しているイチョウは中国原産とされているもので、一種しかありません。
イチョウは、生態・形態ともに変わっています。春、葉の展開とともに目立たない花をさかせ、花粉は風によって運ばれます。シダ植物が前葉体の中を精子が泳ぎ受精するように、イチョウは精子を泳がせ受粉し、種子を成熟させます。この生態を持つ種子植物は、イチョウとソテツだけです。雌雄異株で、近くに両方の木があれば秋、熟すと独特な臭いがする果肉に包まれた銀杏を雌株につけます。秋は、また黄色に色づく葉がとてもきれいで、落葉した葉は黄色い絨毯のように見えます。老木になると乳と呼ばれる気根の一種がみられるようになります。これを乳房に見立て、子宝に恵まれるよう安産のシンボルとしても崇めていました。日本は自然を畏れ敬い、木や山などに八百万の神を見いだしていました。
蓮永寺には2本のイチョウの木があります。「やつやまアルバム」によると、地域では大きい木(樹齢約200年)をおとうさんの木、小さい木をおかあさんの木と呼んでいるそうです。谷津山には大木や森を形成する様々な樹木が生育しています。これらに親しむとともにその生育環境を大切にしたいものです。
谷津山では、放置竹林の竹を伐採した後、クサギ、アカメガシワ、カラスザンショウ、キリ、ハゼノキなどの先駆性陽樹が生育してきます。これらは、パイオニア植物とも呼ばれています。生長が早く、葉を大きく広げ、光を好みます。谷津山では、伐採後の遷移から安定した極相林になるころには、タブノキ、クスノキ、シラカシ、アラカシ、スダジイなどの常緑広葉樹林となります。常緑広葉樹が優位に生育しはじめると、陽樹は枯れ、林縁部の明るいところや、次に光が当たるようになるまで地下茎、埋土種子として生き残ります。
先駆性陽樹としてあげた樹種のうち、キリやハゼノキは渡来した植物とされていますが、谷津山では多く見られます。キリは「やつやまアルバム」(2011年)によると、谷津山にお茶畑が広がっていたころ、畑の隅に植えられることがよくあったそうです。キリはタンスや下駄の材料にもなり、仕事休憩時には木陰を提供しました。ハゼノキは、果実から木蝋をとる資源作物として入ってきました。
谷津山では竹の伐採後、植樹を行っている場所もあります。日本は雨が多いため、光がよく当たるようになると、草本が密生します。そのため、植樹した樹木を生育させるためには、しばらくは下草刈りなどの人の管理は欠かせません。また、植樹をしなくても、若竹切りや下草刈りを行い、先駆性陽樹が葉を広げるようになれば、その下層での植生が押さえられ、埋土種子から陰樹である常緑広葉樹が生育していくでしょう。
5月21日の朝、谷津山に夏の訪れを知らせるホトトギスの初鳴きの声が響きました。夏鳥として飛来し、「卯の花の匂う垣根にホトトギス、早も来鳴きて忍び音もらす、夏は来ぬ」の唱歌でよく知られています。 また「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の例えで家康の忍耐強い性格を信長、秀吉と比較して表した事も有名です。
植物にも花の斑点模様がホトトギスの胸の模様に似ている事から付けられたユリ科の植物が「ホトトギス」と呼ばれ、夏から秋に花を咲かせます。
そんなホトトギスですが托卵(たくらん)・・・ウグイスなどの巣に自分の卵を産みつけ、自分で雛を育てず仮親に育てさせる・・・の習性を持っています。
日本ではホトトギスの仲間、カッコウ、ツツドリ、ジュウイチなどが托卵の習性を持っていますが、自然界では不思議な習性があるものです。
鳴声は「特許許可局」の聞きなしでよく知られていますが、早朝から時々昼間も、また暑くなると夜にも大きな声で鳴きますので、初めて聞く方でもすぐ判ります。
夏鳥は木々の緑に混じって姿は見れませんが、声を聞きに谷津山にお出かけ下さい。
清水山公園に面した谷津山では、クスノキ、ムクノキなどの樹木に着生したラン科の植物、ヨウラクランが見られます。
谷津山のヨウラクランは、樹幹の高いところに生育しています。肉眼でも、和名となった瓔珞(仏様の装身具や、本堂の天井などから下がっている、きらびやかな装飾品)のように花序、葉が垂れ下がっている姿が確認できます。残念ながら双眼鏡を使っても1個1個の花の形は、径1mmと極小であるため、ここでは見ることができません。ヨウラクランと一緒にシダ植物のノキシノブもたくさん生育していますが、ヨウラクランの葉は黄緑色の多肉質で、モミジ、ヒオウギのようなかたちの葉をつけています。そのため、別名モミジラン、ヒオウギランといわれています。
これらの植物は、なぜ生育の場を樹幹に求めたのでしょうか?生育する場所としては土もなく、養分や水を蓄えるところがありません。ラン科の植物は、最も進化した植物であり、他の植物より後から現れてきた仲間です。条件のよいところは他の植物の生育地となっていたはずです。最近の研究で、ランの進化の道筋を調べたところ、最初は地上で生活していたラン科の祖先が、木の上に進出したことがわかったそうです。菌との共生、微細な種子(種子は埃のような細かさで、自力で発芽できないため菌に助けてもらっています)、根被、塊茎の発達などによって、自らの体を作り替えました。多くのラン科の植物は、厳しい環境にも適応できるように進化していくことで、他の植物との競争の少ない木の上に生育地を求めて登っていった植物なのです。
樹幹に生育する植物は、意識してみないとなかなか発見できません。台風の後などに歩いてみると、着生ランなどは時折地上に落ちていることがあります。時には目線を変えて谷津山の自然を眺めてみると、いろいろなことに気づかされるのではないでしょうか?